Wattly
コラム一覧へ

2026-07-08社会・構造系

「全員が正しい地図を持っている」のに遭難する

電力自由化行動経済学意思決定電力会社選び

1996年5月10日、エヴェレストで12人が死亡する遭難事故が起きた。

商業登山隊を率いていたのは、世界有数の経験を持つガイドたちだった。参加者は数万ドルを払ったクライアント。全員がルートを把握し、天候予報も持ち、撤退の基準も事前に決めていた。

情報はあった。地図もあった。ルールもあった。それでも遭難した。

「情報が足りなかったから」ではない。「判断の基準が人によって違ったから」だ。

全員が同じ地図を見ていた

エヴェレスト登頂の最終アタックでは、「ターンアラウンドタイム」というルールがある。午後2時までに山頂に到達できなければ、どんなに近くても引き返す。下山が暗闇と悪天候に巻き込まれるリスクを避けるためだ。

1996年の隊にも、このルールはあった。全員が知っていた。

しかし当日、午後2時を過ぎても登り続けた隊員がいた。ガイドの一人は午後4時過ぎに山頂に到達した。その判断が、下山中の暴風雪と重なり、致命的な結果を招いた。

最も構造的な問題は、「ターンアラウンドタイム」の解釈が人によって違ったことだ。

ある人は「午後2時は絶対の撤退時刻」と理解していた。別の人は「天候が良ければ多少の超過は許容範囲」と理解していた。同じルールが、人によって「硬い壁」にも「柔らかいガイドライン」にもなっていた。

「情報の非対称」ではなく「解釈の非対称」

経済学でよく使われる概念に「情報の非対称性」がある。売り手と買い手で持っている情報が違うから、市場がうまく機能しない、という話だ。

しかしエヴェレストの事故では、情報の非対称はほとんどなかった。全員が同じ地図を持ち、同じ天気予報を聞き、同じルールを知っていた。

問題は「解釈の非対称」だった。

同じ情報を見ても、それをどう解釈し、どう行動に結びつけるかは人によって異なる。これは情報を増やしても解決しない問題だ。

日常の「解釈の非対称」

「30%の確率で雨」という天気予報を聞いたとき、あなたは傘を持っていくだろうか。ある人は「30%なら降らないだろう」と判断する。別の人は「30%もあるなら持っていこう」と判断する。同じ情報から、正反対の行動が生まれる。

会社の会議で「来月から残業を減らしましょう」と方針が出されたとき。「減らす = ゼロにする」と解釈する人と、「減らす = 少し控える程度でいい」と解釈する人がいる。方針は1つ。解釈は人数分ある。

「比較してください」という情報提供の限界

電力自由化後の日本で、消費者に向けて「電力会社を比較してください」というメッセージが繰り返されてきた。比較サイトが立ち上がり、料金シミュレーションが提供され、切り替え手続きは5分で終わると案内されている。

情報はある。ツールもある。手続きも簡単だ。それでも7割以上の消費者が電力会社を変えていない。

「月500円安くなります」という情報。ある人は「年間6,000円も得する」と解釈する。別の人は「たった月500円で手続きの手間をかけるのか」と解釈する。同じ金額が「大きい節約」にも「取るに足らない差」にもなる。

情報提供者は「情報を出せば人は動くはずだ」と思っている。しかし情報は行動を決定しない。情報の解釈が行動を決定する。そして解釈は、人それぞれの文脈(年収、時間的余裕、過去の経験、リスク許容度)に依存する。

地図は「現実」ではない

ポーランドの科学哲学者アルフレッド・コジブスキーは「地図は領土ではない」という有名な言葉を残した。地図がどんなに正確でも、地図は現実の縮約・抽象化に過ぎない。地図に載っていない岩がある。地図が描かれた後に崩れた道がある。

地図を持っていることが安心感を与え、地図を疑うことを止めさせる。エヴェレストの登山隊も、ルートの地図は正確だった。でも天候と体力という「地図に載っていない変数」が結果を決めた。

電力市場の「地図」——料金表、契約書、比較サイト——も同じだ。それらは現実の一部を切り取っているに過ぎない。料金表に載っていないコスト(将来の値上げリスク、撤退リスク)が、長期的な損得を左右する。

「正しい情報」を渡すだけでは不十分な理由

エヴェレストの悲劇から得られる教訓は、「もっと情報があれば避けられた」ではない。情報はあった。

教訓は、「情報の解釈を揃える仕組みがなかった」ことだ。

「ターンアラウンドタイムは午後2時」というルールを、「絶対に午後2時で引き返す。例外なし」と全員が同じ解釈をしていれば、結果は違っていた可能性がある。しかし「例外あり」という解釈の余地を残したことで、人によって判断が割れた。

判断基準を揃えるか、違いを織り込むか

解釈の非対称に対処する方法は、大きく2つある。

1つは「解釈の余地をなくす」こと。ルールを曖昧さなく定義し、例外を認めない。航空業界のチェックリスト文化がその典型で、パイロットは「判断」ではなく「手順」に従う。

もう1つは「解釈が違うことを前提にする」こと。全員が同じ判断をすることを期待せず、判断がバラバラになっても全体が致命傷を負わない設計にする。

電力系統は後者のアプローチを取っている。「全消費者が同時にエアコンをつけないでください」と頼むのではなく、全消費者が同時にエアコンをつけても耐えられるように系統を設計する。個々の判断をコントロールするのではなく、個々の判断がバラバラであることを前提に、全体の堅牢性を確保する。

地図を持っているだけでは、目的地に着けるとは限らない。


Wattlyは、電力の仕組みを独自の視点で解説するメディアです。電力に関する疑問・乗り換えの相談はこちらから。

コメント

読み込み中...