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2026-07-21技術・しくみ系

羊飼いの犬は、羊を追っているのではなく「圧力」を作っている

電力系統需給バランスデマンドレスポンス再エネ

牧羊犬が羊の群れを動かしている映像を見たことがあるだろうか。

犬は猛烈な勢いで走り回り、羊の群れはまとまったまま、まるで一つの生き物のように移動していく。犬が吠え、走り、近づくと、羊は一斉に逃げる。まるで犬が一頭一頭に「あっちに行け」と指示を出しているように見える。

しかし2014年、英国スウォンジー大学のダニエル・ストロンベクらの研究チームが、GPS追跡データを使って牧羊犬の行動を詳細に分析した結果、まったく違う実態が見えてきた。

犬は個々の羊を追っていない。犬は群れの端に接近することで「圧力」を作り、群れ全体を移動させている。

犬が使っている2つのルール

ストロンベクらの研究が明らかにしたのは、牧羊犬の行動が驚くほど単純な2つのルールに集約できるということだ。

ルール1: 群れがバラけていたら、集める。 犬は群れの最も外側にいる羊に近づく。近づかれた羊は群れの中心に向かって逃げる。これを繰り返すと、バラバラだった群れがまとまる。

ルール2: 群れがまとまっていたら、押す。 群れが十分にまとまったら、犬は群れの後方に回り込み、群れ全体を目的の方向に「押す」。

犬は羊を1頭ずつコントロールしていない。群れの「端」に圧力をかけることで、群れ全体の動きを生み出している。個体への命令ではなく、空間に「見えない壁」を作っている。

犬が右側に近づけば、群れは左に動く。犬が後方に回れば、群れは前に進む。犬の位置が「圧力の勾配」を作り、羊はその勾配に従って流れる。水が高い方から低い方に流れるように。

群れが「従う」のではなく「逃げる」

ここで重要なのは、羊は犬の「命令に従って」動いているのではないということだ。

羊は犬から逃げている。それだけだ。犬が近づくと離れる。犬がいない方向に移動する。各羊はただ「怖いものから離れる」という単純な行動をしているだけだ。

しかしこの「逃げる」という個体レベルの単純な行動が、群れレベルでは「秩序ある移動」になる。犬が圧力をかける位置を変えることで、群れ全体の移動方向を制御できる。

つまり犬は「羊を動かしている」のではなく「羊が逃げる方向を制御している」のだ。制御の対象は羊ではなく、空間の圧力配置だ。

電力系統の「牧羊犬」

この構造は、電力系統の需給制御に驚くほど似ている。

電力会社は、数千万世帯の消費者に対して「午後2時にエアコンを切ってください」「洗濯機は夜10時以降に回してください」と個別に指示を出すことはできない。物理的に不可能だし、仮にできたとしても誰も従わない。

では、どうやって需要を制御しているのか。

答えは「価格シグナル」だ。

時間帯別料金、デマンドレスポンス、市場連動型プラン——これらは全て、電気の「価格」を時間帯によって変えることで、消費者の行動を間接的に誘導する仕組みだ。

デマンドレスポンスは、まさにこの「牧羊犬」のアプローチだ。電力が足りなくなりそうな時間帯に「使わなかったら報酬を出す」というシグナルを送る。消費者は報酬に反応して使用を控える。電力会社は個々の消費者に指示を出しているのではなく、「報酬」という圧力の勾配を作っている。

消費者は「命令に従っている」のではない。「得する方向に動いている」だけだ。羊が犬から逃げるように。

「指示」と「誘導」の決定的な違い

牧羊犬の方法と、牧場のフェンスの方法は、まったく違うアプローチだ。

フェンスは物理的な壁で、羊の移動を強制的に制限する。どこに行けるか、どこに行けないかを完全に決める。羊に選択の余地はない。

牧羊犬は物理的な壁を作らない。圧力の勾配で誘導する。羊にはどちらに逃げるかの「選択」がある(ように見える)。しかし犬が適切に圧力をかけることで、群れ全体は結果的に望む方向に動く。

電力の需給制御にも同じ2つのアプローチがある。

フェンス型: 計画停電、使用制限令、強制的な電力カット。消費者に選択の余地はない。 牧羊犬型: 時間帯別料金、デマンドレスポンス報酬、ピーク時割増。消費者は「自分の判断で」行動を変える。

フェンス型は確実だが、社会的コストが大きい。2022年の電力需給ひっ迫時、政府は「節電要請」を出したが、これは「お願い」であって「フェンス」ではなかった。フェンス(計画停電)に踏み切るのは最後の手段だ。

牧羊犬型は確実性に欠けるが、社会的コストが小さい。消費者は「強制された」と感じない。自分の判断で動いたと感じる。この「自発性の感覚」が、持続可能な需給制御の鍵になる。

市場価格という「犬の位置」

電力のスポット市場(JEPX)の価格は、30分ごとに変動する。需要が高い時間帯は価格が上がり、需要が低い時間帯は下がる。

この価格変動が、市場参加者にとっての「犬の位置」だ。

価格が高い時間帯に電力を多く使う企業は、コストが膨らむ。だから高い時間帯を避けて、安い時間帯にシフトしようとする。大口需要家はピーク時の使用量を抑えることで、大幅にコストを下げられる。

価格という「圧力」が、需要を自然にピーク時間帯から遠ざける。誰も「何時に何を使え」と指示されていない。しかし価格の勾配に沿って、全体の需要カーブは平準化されていく。

羊が犬のいない方向に逃げるように、需要は価格の安い方向に逃げる。

制御の設計思想

牧羊犬から学べるのは、「制御」の設計思想だ。

複雑な系(群れ、市場、電力網)を制御するとき、個体への直接的な命令は機能しない。個体の数が多すぎるし、各個体の状況は異なるし、命令を出す側の情報も完全ではない。

代わりに有効なのは、「環境を変えることで、個体の行動を間接的に変える」アプローチだ。犬の位置を変える。価格を変える。インセンティブを変える。個体は自分の判断で動くが、環境の設計によって全体の方向は制御できる。

牧羊犬は羊を1頭も「知らない」。名前も性格も体調も知らない。それでも群れ全体を望む方向に動かせる。必要なのは個体の情報ではなく、圧力をかける適切な位置と強さの知識だ。

次にエアコンの電源を入れる時間を少しずらそうかと考えたとき、それは誰かに指示されたからではないだろう。電気代が高い時間帯を避けたいという、あなた自身の判断だ。でもその判断の裏には、「圧力の勾配」が設計されていることを、牧羊犬の話から思い出してほしい。


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