2026-09-12 ・ 構造・視座系
パン種は、誰のものでもない微生物の群れだ
パン屋の奥に、何十年も継ぎ足されてきたパン種の壺がある、という話を聞いたことがあるだろうか。
小麦粉と水を混ぜて置いておくと、空気中や粉についていた酵母と乳酸菌が住みつき、発酵が始まる。毎日いくらか使い、いくらか粉と水を足す。この繰り返しで、種は何年も生き続ける。「創業以来の種を使っています」という表現には、そういう背景がある。
ただし、この種の中身は毎日入れ替わっている。
「同じ種」と呼ばれるものの中身
パン種の中にいるのは、無数の微生物だ。それぞれ寿命は短く、増えては死ぬ。使った分だけ取り出され、足した粉に新しい菌が入ってくる。
季節が変わると、温度と湿度に応じて優勢な菌の構成も変わる。店を引っ越せば、その土地の菌が混ざる。粉の産地を変えれば、また変わる。
つまり50年前の種と今日の種のあいだに、同じ個体は一つも残っていない。物質としては、完全に別物だ。
それでも「同じ種」と呼ぶことに、嘘があるとは言い切れない。受け継がれているのは、個々の菌ではなく、菌の群れが作る状態——酸味の出方、発酵の速さ、膨らみ方——であり、それを維持する手入れの連続性だ。
同一性は、中身ではなく、続き方の側にある。
「同じ電気」とは何を指すのか
この居心地の悪さは、電気を扱うときにも現れる。
コンセントから来る電気には、産地の情報がない。太陽光で作られた電子と、火力で作られた電子を、物理的に見分ける方法はない。系統に流し込まれた瞬間、すべては混ざり、区別がつかなくなる。
にもかかわらず、「再生可能エネルギー由来の電気を使う」という契約は存在する。物理的に分けられないものを、どうやって分けているのか。
答えは、物ではなく記録の側で分けている。どこかで再エネによって発電された事実を証書として切り出し、それを需要側に紐づける。電子そのものは混ざったままで、属性だけが帳簿上を移動する。
これを「まやかしだ」と言うのは簡単だ。だが同じ理屈でパン種を否定するなら、50年続く種など存在しないことになる。
物質で追えないものを、どう数えるか
パン種の同一性が「手入れの連続性」で担保されているように、再エネの電気の同一性は「記録の連続性」で担保されている。
大事なのは、その記録が二重に使われないことだ。同じ1kWhの再エネが、複数の需要家に別々に売られてしまえば、帳簿は現実から離れる。だから証書には、発行から使用、そして無効化までを一度きりで追える仕組みが要る。
ここが緩ければ、確かにまやかしになる。逆にここが厳密なら、物理的に混ざっていることは問題にならない。銀行預金がそうであるように、価値の移転は物の移動を必要としない。「再エネ100%」の電気が石炭から来るという一見矛盾した状態も、この二層構造を知っていれば読み解ける。
「誰のものか」が決めにくいもの
パン種にはもう一つ、扱いにくい性質がある。所有者がはっきりしないことだ。
種を育てているのはパン職人だが、菌を作ったわけではない。菌は空気中にいたものであり、粉に付いていたものであり、その土地の環境が供給したものだ。職人がしているのは、増えやすい条件を保ち続けることに近い。
分けてもらった種は、もらった側の家で別の菌を取り込み、別の状態に育つ。それを誰の種と呼ぶべきなのか、答えは決めにくい。
電気にも似た曖昧さがある。系統に流れている電気は、多数の発電所からの供給と、多数の需要が同時に釣り合って成立している状態そのものだ。ある一社の電気、と切り出せるのは契約と計量の上だけで、物としては全員のものが混ざっている。
だから電力の取引は、物の受け渡しではなく、「同じ時間に、同じだけ入れて、同じだけ取り出した」という帳尻の合わせ方で成り立っている。入れた量と取り出した量を突き合わせる仕組みがあるからこそ、混ざったままでも売り買いが成立する。
「本物か」ではなく「何が続いているか」
パン種を買ってきて自分の家で育て始めると、数か月で味が変わる。もとの店の種とは別のものになっていく。それでも育て続ければ、それはそれで一つの種になる。
どこからが「別のもの」なのかに、明確な線は引けない。線が引けないのに、続いていることは確かにある。
電気についても、「これは本当に再エネなのか」という問いは、物質のレベルで答えようとすると必ず行き詰まる。答えられるのは、「その再エネがどこで作られ、その属性が誰に渡り、二度使われていないか」という記録のレベルだけだ。
問いの立て方を変えないと、答えが出ない。物質を問うのではなく、連続性を問う。
選ぶ側から見ると、何が変わるか
この構造を知っていると、電力プランの見え方も少し変わる。
再エネを選ぶという行為は、自分の家に届く電子の種類を変える行為ではない。発電される電気の構成を、需要の側から少しずつ押す行為だ。証書に価格がつき、需要があれば、その分だけ再エネ発電の採算が改善する。効き方は間接的で、遅い。だが方向としては、そこにしか作用しない。
即効性を期待すると失望する。パン種と同じで、日々の手入れが積み重なった先にしか、状態は変わらない。
一方で、料金の面ではもっと直接的な話になる。再エネ由来をうたうプランの価格は、証書の調達コストを含むぶん、必ずしも安いとは限らない。安さを求めるのか、電源の構成に働きかけたいのか——目的が違えば選ぶものが違う。
どちらが正しいという話ではない。ただ、自分がどちらを買っているのかを取り違えると、請求書を見たときに納得できなくなる。何十年も続く種を継ぐのと、今日おいしいパンを焼くのは、別の目的だ。
Wattlyは、電力の仕組みを独自の視点で解説するメディアです。電力に関する疑問・乗り換えの相談はこちらから。